「学問の自由を云々するなら『軍事研究も好きにさせろ』が言えないとねえ」というKGN_works氏と同調する3803masa氏と、湯川秀樹氏の「世界の平和なくして学問はない」
KGN_works氏の主張と、3803masa氏の主張と、私の感想をメモ。
KGN_works氏
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
>「学問の自由」を云々と言うなら
>「軍事に関わる研究?研究結果の使い道なんぞ知るか、悪用する奴が悪い!研究は好きにやらせろ」
>が言えないとねえ
言論の自由を云々する場合は軍事に関わる研究を否定する発言も有りだが
学問の自由を云々する際は無しになる訳か#学問の自由
Wikipediaによると
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月3日
アインシュタインは湯川秀樹氏に[原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった,私を許してください]と述べたらしい
湯川氏は「学者は研究室の中が世界のすべてになりがちだが、世界の平和なくして学問はない」という考えに至り
世界平和のための運動に力を入れるようになったらしい
KGN_works氏
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
>とある講演会のあと、演者の先生に質問
>工学を目指す者は最終的な使用方法を考えて手加減すべきかどうかと
>「それは科学者の考えることではない」
>ときっぱり言い切って
[最終使用法を考えて手加減=科学者としては無しな行為]
という式が何時如何なる場合も成立する訳か#学問の自由
続き)
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
[平和な環境なくして学問はできず,平和の事も考えつつ研究活動しよう]
と思わず
[平和がどうのこうのと考える必要なし,自分の研究成果が悪用されて世間が騒動する事態になったとしても,それは悪用した人が責められるべき話]
と思う方が科学者として正しいという事か
勉強になった#学問の自由
続き)
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
仮に私のtweetが軍事に利用され
KGN_works氏の平和な環境が乱れて私に抗議しても
[私の知った事か! 軍事利用した人の責任だ! tweetは自由に書かせろ!]
と返すと
GN_works氏は納得して帰るのだ
……というtweetを私が投稿できるのも
平和な環境に居るからこそ
ありがたい事#平和#学問の自由
KGN_works氏
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
>そこに事象があれば研究したくなる人はいるし
>それを制限しないのが重要
次の論理か
前提:事象があれば研究したくなる人が居る
結論:この事実により,[軍事に関する研究を制限するのは誤り]と成る
[○○な性分の人が居る,ゆえに○○を制限するのは誤り]という論理か#学問の自由#論理
3803masa氏
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年10月5日
>興味が湧けば掘り下げたくなるのが研究者かなと思う
>軍事の研究はするな
>は違うな
次の論理か
前提:興味で掘り下げたくなるのが研究者と自分は考える
結論:故に,軍事研究するなという研究者は違うと成る
[我は〇〇と考える,故に〇〇に反する主張は誤り]という論理か#学問の自由#論理
KGN_works氏の、
「学問の自由を云々するなら『軍事研究も好きにさせろ』が言えないとねえ」というTweetを見た直後の私は、
「なるほど、軍事に悪用される恐れがどうのこうと考えず、ひたすら自分の研究に打ち込むのが学者として正しい態度なのだな」
と思ったが、
湯川秀樹氏の世界規模の平和思考を知った後は、自分の視野の狭さを思い知らされた次第。
こうして私がブログを更新できるのも平和な環境に居るからこそであり、ありがたい事である。
【追記、その1】
多様性を云々するならば、
「軍事に関わる研究だから何? あなたは日本に学問の自由があるのを知らないのか? ゆえに私は軍事研究を好きなだけ行ってよい」
というスタンスの学者が存在してよい一方で、
「平和の環境なくして学問は成り立たない、平和の事にも思いを馳せつつ研究活動しよう」
というスタンスの学者が存在してもよいことになる。
多様性を重んじている御方とお見受けするKGN_works氏と3803masa氏、この考え方については賛同してくださるはずと私は推測する。
もちろん、次のようなお言葉をいただく可能性もゼロでない。
「確かに学者には、」
『もしも自分の研究結果が、未来のどこかの時点で軍事に悪用されて、』
『その影響で誰かの平和な環境が脅かされて、』
『その際の私は憂慮して狼狽するだろうから、』
『今のうちに軍事転用を認めない旨を世間に表明しておく必要があり、云々』
「という想像に思考のリソースを消費しながら研究を進めるスタンスを採用する自由もあるが、」
「これは本来あるべき正しい学者像から外れたスタンスであり、」
「学者として異様なスタンスであり、」
「よって『肯定的に評する要素は一つもないスタンス』という結論になる」
【追記、その2】
KGN_works氏は、Twitterで次の論理を披露していた。
前提:地球上には、「そこに事象があれば研究したくなる人」が存在する。
結論:ゆえに、「軍事研究を制限しないのが重要」という理屈になる。
3803masa氏は、Twitterで次の論理を披露していた。
前提:自分自身は、「興味が湧けば掘り下げたくなるのが研究者」と思っている。
結論:ゆえに、「軍事研究するなと発言するのは違う行為」という理屈になる。
これらの論理に私は違和感を覚えるが、これは私だけの特殊な思いであろうか。
論理に詳しい御方は、「その二つとも前提と結論がきれいに繋がっている論理であり、なんら飛躍はない、変だと思うほうがおかしい」と仰るのだろうか。
【追記、その3】
自分の新規ツイートを2つ追加。
KGN_works氏
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年11月11日
>そこに事象があれば研究したくなる人はいる
>それを制限しないのが重要
[○○な性分の人が居る,ゆえに○○を制限するのは誤り]という論理.
この論理が正しい場合,[詐欺のチャンスがあれば実行したくなる人が居る,ゆえに詐欺を制限するのは誤り]も正しい主張となってしまうが(続く#論理
(続き
— TAKA (@TAKAMAR86618660) 2020年11月11日
明らかに変なので,
[○○な性分の人が居る]の前提から[○○を制限するのは誤り]の結論が直ちに導けるとは限らないと思う私だが,
論理に詳しい人は,
[えっ,軍事研究をしたくなる人が居る,ゆえに軍事研究を制限してはいけないとな?……うむ,論理に飛躍は一つもない]
と判断するのだろうか.#論理
「軍事研究したくなる人が居るから」という理由だけで「軍事研究の制限をしてはいけない」と結論してよいのだろうか。
例えば、次のような主張の仕方をすれば違和感が減るのだが。
「軍事研究を制限した場合、これこれのメリットとデメリットがあると私は考えました」
「軍事研究を制限せず自由に行う場合は、これこれのメリットとデメリットがあると私は考えました」
「これらのメリットとデメリットを比較した末に、『我が国は軍事研究を制限しないほうが良い』と私は結論しました」
「その詳細を次のリンク先に記述していますので、お疑いの読者さまは存分に検証してください」
論理に詳しい人は、「そのように長々と述べる主張の仕方は必要ない、『軍事研究したくなる人が居るから軍事研究を制限するな』という主張で十分だ」と仰るのだろうか。